| キハ181「やくも」の頃(2) |
| キハ181系「やくも」の頃(2)は、キハ181以外の当時の出雲市駅を行き来した車輛達です。 まずは、山陰のクイーンキハ82「まつかぜ」。正統派山陰特急の「まつかぜ」は当時2往復の設定があり、ともにキハ82で運行されていました。新大阪から東海道、福知山線を経由し、福知山から山陰本線へと入り、一往復は鳥取まで、そしてもう一往復は更に西進し米子、松江、出雲市、益田そして山陰本線の西の終点幡生から山陽本線に入り関門トンネルを通過、九州に上陸し鹿児島本線博多に達していました。 ![]() 遠路新大阪から出雲市に到着した下り「まつかぜ」。まだまだ道半ば。このあと博多を目指し山陰を更に西へと進みます。タイフォンカバーのついていないキハ82もなかなかです。キハ82と留置線で休む旧客…あっという間に過去の風景になってしまいました。 ![]() 新幹線博多開業から7年ほど経った当時に新大阪博多間の昼行特急が存在していたのは今にしてみれば驚きに値します(当時としては山陰に「まつかぜ」ありきは当然でしたが…)。この博多行き「まつかぜ」は北の大地をひた走る北海道の各特急を抑え堂々ディーゼル特急の走行距離一位に輝いていました。確か、新大阪博多間を13時間ほどかけて走っていたと記憶しております。大阪駅に銀河で到着する朝8時頃、「まつかぜ」は博多に向けて出発していたと思いますので、博多到着は夜9時ごろだったのでしょうね。新幹線で行けば午前中にも着いていたのでしょうが…。 これだけの距離をこれだけの時間をかけて走っていたので、当然食堂車キシ80も連結され営業していました。博多に向かう「まつかぜ」は鳥取か米子で編成の約半分を切り落としていたので、出雲市を発着する「まつかぜ」は身軽な編成でした。(13輌から6輌を切り落として7輌かな?) ![]() 博多から到着した「まつかぜ」が新大阪に向けて出発します。今ではほとんど見られない本格長距離特急の姿です。 ![]() 一路、新大阪を目指し出雲市を後にする上り「まつかぜ」。伯備線電化のタイミングで、鳥取「まつかぜ」、博多「まつかぜ」は米子行き2往復に整理されキハ181系化されたと思います。福知山以西の山陰本線を完走していた特急は消え、同時に関西発九州行きの昼行特急も消えました。もう二度と叶いませんが一度、全行程乗ってみたかった特急です。 ![]() 出雲市から大阪、九州に向かう昼行特急の次は、東京行き寝台特急です。言わずと知れた(?)「出雲」。当時「出雲」には2往復あり、東京−米子間の「いなば」を出雲市まで延長した「出雲2・3号」は14系で運行されていました。 ![]() 「出雲市」止まりということで、昼間は車輛区で休んでいました。米子鉄道管理局出雲市運転所(か、客車区か…何か…忘れた)。所属の車輛標記は米イモ…(米と芋?)炭水化物な標記です…。ただ、この14系自体の所属は南シナだったかな? ![]() 東京に早朝に到着する「出雲2号」はまだ日が高いうちに出雲市を出発していました。 ![]() 京都までDD51が牽引にあたります。かつての「いなば」は京都から東京まで浜松区のゴハチが牽引にあたっていましたが、この時点の「出雲2号」ではすでにPF(EF651000)になっていたはずです。因みに、当時「出雲2号」は、名古屋で紀伊勝浦から来る「紀伊」をまだ併結していたはずです。(東京を夜遅く(といっても10時前後?)に出て早朝に到着する「いなば・紀伊」は小学生当時、幻の列車でした…小学生の生活サイクル外の走行だったんで…。) ![]() 東京に向かう「特急」の入線です ![]() ブルーの車体に赤い「出雲」のマークが映えるキハネフ14…じゃなくてスハネフ14。14系の特徴を生かした併結運転でしたが、やがて「紀伊」廃止によって併結運用は解消されてしまいます。その後この14系「出雲2号」は伯備線経由の電車特急へと姿を変え「サンライズ出雲」に発展していきますが、サンライズになったときに「サンライズ瀬戸」と併結するようになり、「いなば・紀伊」来の併結特急の因縁を感じます。 ![]() 「いなば」に端を発する14系2・3号に対し、24系25型の「出雲1・4号」は正統派「出雲」とし東京浜田間を結んでいました…っていうか結んでいます(1・4号の号数名は再びとれたけど)。 南シナの24系25型は、当時の「あさかぜ1・4号」「はやぶさ」「冨士」と共通で、最も優遇されていた寝台特急のひとつと言って良いと思います。 付属編成は、出雲市で解結されていました。従って、上りの4号の場合は出雲市で付属編成を増結するわけですが、電源車を最後部に連結する上りの場合、基本編成で浜田から到着した後、一度牽引機が外され、機関車と基本編成の間に付属編成が挟まれる…というちょっと時間の掛かる増結を行っていました。 写真の手前が浜田からきた後機関車が一旦外された基本編成、向こうから推進されてくるのが今から増結される付属編成。両渡り方向転換可能なオハネフ25200番台が一瞬だけ人前で見せる半折妻のエンドと「出雲」のバックサインです。 「あさかぜ1・4号」24系25型に伴い食堂車不足のためオシ24は基本編成から付属編成に移っていた(「はやぶさ」「冨士」で一日早く帰ってこれるから?)ので、浜田からの乗客にとっては出雲市での付属編成の増結は待ちに待った食堂車の連結…だったかもしれません。(と、皆が切に願っていれば後の営業休止なんてことにはならなかったか…。) ![]() 電源車カニ24。ひげつきの基本番台が良いですね。マイクロスカートのついてる一次型なら尚良かった(好みのわかれるところですが…)のですが。「はやぶさ」「冨士」「出雲」が25型かされる以前、24型当時から電源車は銀帯のカニ24(24型時代の「出雲」にはカヤ24が入ることが多かった?詳細不明)でしたのでかなり以前から馴染みのある客車で、お気に入り車輛のひとつでした。 ![]() 付属編成の増結作業のため暫し出雲市で身体を休める24系25型。「やくも」「まつかぜ」とともに出雲市に発着するエリート特急の一つ「個室ロネ・2段ハネ・食堂車付きフル編成出雲」はやがて東京に向けて出発していきました。ホーム向かいに停車中のキハ35は今は無き大社線(だと思います)。 ![]() 特急をサポートしていたキハ28・58の急行は、山陰の名脇役でもありました。 ![]() 急行「美保」…う〜ん…どっからどこまで行っていたんだろう。 ![]() 急行の連結シーンです。乗車位置案内の札、国鉄色の気動車、奥では大阪行き「だいせん」の20系が乗客を迎える準備に入っています。今にもディーゼルエンジンの音が聞こえてきそうです。 ![]() 当時の一畑電鉄。伯備線電化の遥か以前から電気の力で山陰を走っていた偉い私鉄。この車輛は元西武だったでしょうか?2扉クロスシート車で、背ずりにはビニールの枕カバーもついた豪華(?)仕様でした。急行では急行料金をシッカリ徴収されましたけど…。 ![]() 1982年3月、博多行きの急行「さんべ」に乗って出雲市を後にしました。20系と12系の併結編成で電源は12系から供給されれるという「かいもん」あたりで始まった方式です。大阪行き「だいせん」はオール20系。ハザはロネ改造のナハ21(?)だったと思います。というわけで編成美は「だいせん」の圧勝。81年8月には「だいせん」に乗ってます。 急行とはいえ…、12系併結とはいえ…、ナハネフ22を最後尾にした夜行列車にはそれなりに風格が漂います。思えば、この「さんべ」が最後に乗った20系です。はじめて「銀河」に乗せてもらったときと同じ52cm寝台。この「さんべ」で出雲市から小倉に行き九州で一日過ごし翌日の「あさかぜ4号」で帰りました。 このとき出雲市を後にして以来、出雲市には行ってません。東京から直通の寝台電車まで通るようになった駅はどうなっているのでしょうか。ここの画像にあるようなローカル色たっぷりの駅ではなくなってしまっているのでしょうね。 |